新潟へぎそば 小嶋屋総本店

新潟へぎそばの老舗 小嶋屋総本店 100年の歩み

1922 大正11年
小嶋屋創業

初代店主 小林重太郎は、中魚沼郡千手村木島(現在の十日町市中屋敷)にて
小林の姓から「小」を、木島地区から「島」をとり
「小嶋屋」という名のそば専門店を開業しました。

布乃利そばの誕生 初代店主 小林重太郎について
初代店主 小林重太郎
歴史の一場面
1931 昭和6年
初の分店を出店する

国鉄(現JR)の信濃川発電所(旧千手村・現十日町市川西地区)の建設工事着工に伴い、建設工事現場近くに初の分店を出店しました。これが当時の小嶋屋に大きな追い風となったのです。
この山間の村は全国からやってきた工事関係者と職人でごった返し、電力景気にわきました。人口わずかな町が、昭和25年には17,979人(現在でも、これが当町の人口のピーク)にふくらむことになります。千手の中心街には芸妓置屋や飲み屋、飲食店が増え、地域に活性化をもたらしました。もちろん、小嶋屋もたいへんな繁盛ぶり。
当時、この地域で生そばの伝統を守っていた重太郎のそばは関東のそば好きにも評判となり、飛ぶように売れたのです。

1947 昭和22年
長男 申一が二代目店主に

重太郎の長男・申一は昭和21年11月、満州から復員します。
翌年の昭和22年、おりしも電力景気に沸くこの町で、マサと結婚し家業を継ぎました。
飛ぶ鳥を落とす勢いのなかでも、二代目 小林申一は研究熱心にどこへ行っても必ずそばを食べ、
自分の店で活かせることはないかと探究していました。

そばづくりへの思い 初代店主 小林申一の「先見の明」
二代目店主 小林申一
1948 昭和23年
初めての皇室献上

新潟市で開催されたインターカレッジに、天皇陛下のご名代として秩父宮妃殿下がおみえになった時のこと。当時の岡田正平県知事が十日町出身という縁もあり、小嶋屋のそばを昼食に召し上がっていただいたらどうかとお話しを頂きました。
皇室献上といえばたいへん名誉なこと、この件に関して千手町では議会にかけるほど慎重だったとか。当日は生そばを車に積んで行き茹でたてを差しあげたところ、妃殿下はたいそうお気に召したようで「お礼が言いたいから」と重太郎をお部屋に呼んだそうです。ところが当時は背広などパリッとした洋服がなかった時代。あわてて県のお偉方から背広を借りてかしこまったと、そんなエピソードが残っています。
これ以後、小嶋屋総本店では現在までに5回の皇室献上を賜り、公式行事の際にもご所望を承っております。

1971 昭和46年3月
乾麺の製造を開始

この頃には、店舗で使う玄そば(そばの実)が年間100トン、一日に1000食以上を売り上げるまでになりました。そんななかお客様から「生そばは確かにうまいが日持ちがしない、土産用にどうにかできないか」とのご要望をいただき、申一はさっそく乾麺の研究をはじめます。
昭和46年には廃業した乾麺工場の技術者から協力を得て、当社単独で乾麺の製造をスタート。思い起こせば自然乾燥の手作りのような工場でしたが、これにより従業員は一年を通し安定した仕事ができるようになり、乾麺はご贈答用にたいへん喜ばれました。

乾麺パッケージヒストリー 乾麺の誕生から現在まで
1975 昭和50年
二代目 申一、倒れる

申一は家業に励むかたわら地域貢献にも熱心で、消防団長やPTA会長、商工会千手支部長、町議会議長、飲食関係の役職など、多岐にわたって努めました。
町の公職にも就く忙しい日々を送る中、昭和50年12月12日、申一は脳卒中で倒れてしまいます。

病院の枕にひびく瀬の音を聞きつつ夫の足をなですり退院を望んでおりぬ夫なれど胸にて泣きて昨日も今日も長男と嫁に今日より店任しわれはひたすら夫に尽くしぬ

(小林マサの歌集「わが夫(つま)恋盆唄」より一部を抜粋)

病床で申一を看病しながら短歌をはじめた妻マサの、想いあふれる“叫び”です。

申一の長男、重則は当時、東京の大学へ通っており、卒業後は申一のもとで小嶋屋の技術を学び、伝統と格式を重んじながらそばの本質を究めていこうと考えていたのでした。申一が倒れたことで、二代にわたり受け継いできた“のれん”の重みがずっしりと感じられた重則。お客様や従業員のためにこののれんを守らなくては、そしてこの状況を乗り切らなくてはいけないと、東京から戻ってきたのです。

1993年 平成5年4月
小林重則、社長に就任する

申一の長男、重則が小嶋屋総本店を継承し、三代目店主となる。
創業当時からの「三たて:挽きたて、打ちたて、茹でたて」にこだわり、
「お客様へのおもてなしと品質第一を大切に」という経営理念を掲げる

小嶋屋の系譜 へぎそばの源流をたどる
三代目店主 小林重則
 
2002年 平成14年
「布乃利 魚沼そば」誕生

魚沼といえば、言わずと知れた米どころ。しかしながら地元農業の減反政策の一環として、そば栽培が徐々に広まりつつありました。三代目 重則は今以上にそば栽培を行えないかと、地元にある「十日町そば研究会」に積極的に働きかけてきました。
そばはやせ地でもすくすく育つ半面、天災や湿害には弱い点も持ち併せます。そばの実が熟す直前、刈り入れ前に思わぬ台風や初雪のために涙する……そんな生産者の苦労話もありました。
しかし、そばにかける熱い思いは重則だけでなく、行政やJA、生産者が一体となった大きなうねりを生む事となります。当地の玄そばの品質が認められるにつけ、生産量を増やしていったのです。
平成14年にはいると地元産の玄そばも安定した量が確保でき、「地元産のみのそば粉」を具現化した商品「布乃利 魚沼そば」(現在の「手繰りへぎそば(乾麺)」の前身にあたる商品)が誕生しました。「安全・安心」「地産地消」は、わたし共作り手がこだわるキーワードであり、お客様からの信頼にもつながるものと考えています。

2003年 平成15年
そばの新品種が開発される

平成15年、新潟県上越市にある「北陸試験センター」にて、そばの新品種(当時の名は「北陸2号」)が開発されました。

新品種の特徴

新品種は上記の通り、非常に優れた特徴をもっていました。「まだ命名もされないこの品種を、当地のそば栽培に活かせないだろうか」― 重則の考えにいち早く賛同して頂いたのは、十日町地域振興局の植木課長(当時)です。「やるからには徹底的に!米に負けない高品質のそば栽培に、地域と一体取り組みましょう!」と、力強いお言葉も頂きました。
この品種はのちに「とよむすめ」と名付けられ、当地では種子用に5キロの種を分けて頂く事ができ、全国で2番目の栽培量を手がけることとなりました。そばは交雑しやすく、他の品種とは一緒に栽培できません。「とよむすめ」は種子用に隔離された場所で大事に育てられ、平成19年、ついに十日町市旧川西地区において、玄そばはすべて「とよむすめ」に品種統一されました。現在、当社においては、地元玄そばの9割以上にあたる30トン以上の「とよむすめ」を入荷しています。

そば畑
2008年 平成20年
「魚沼手繰りそば」誕生

「とよむすめ」の登場が、三代目 重則の追及心に火をつけます。地元そば栽培の活性化への取り組みから約10年。長年思い描いてきた夢を形にする時がやってきました。「こだわりの地元産玄そば『とよむすめ』のみを使い、その他の原材料も全て純国産とした、本当の意味でこだわり抜いた乾麺を作る」―― 小嶋屋総本店が自信をもってお勧めする、地産地消のこだわりを持った乾麺「魚沼手繰りそば」が、平成20年ついに誕生しました。
当地の玄そば栽培の集大成とも言える「魚沼手繰りそば」ですが、よく聞かれるのはこの「手繰り」の意味。「へぎそば」を盛り付ける際、一口ずつ食べやすく織の目に模して並べた紋様(模様)は、全国的にみても珍しいものです。この形(またはその動作)を「手繰り」と呼びますが、その語源は、伝統技術である織物の糸を巻く動作「かせ繰(ぐ)り」から伝わったと言われてます。
当地の織物文化、そしてへぎそばという食文化を結ぶ上でも、「手繰り」という言葉は切っても切れません。味へのこだわり、産地へのこだわり、歴史へのこだわり……、いくつもの熱い想いを一つのストーリーとしてつなぐ意味も込め「魚沼 手繰りそば」と命名したのです。

2013年 平成25年3月
「へぎそば工房」を竣工

衛生的・効率的で生産性を向上させる事ことはもちろん、
品質・味も充実・進化させる=お客様満足度を高めることを第一の目的として、
新工場「へぎそば工房」を造りました。

2014年 平成26年
そば殻を次世代燃料へ

当社では、2014年からそば粉を自家製粉する際に残るそば殻を活用し、バイオコークスを製造しております。
産業廃棄物として処理せざるを得ないと考えていた「そば殻」を革新的な燃料にする事で、
地元の産業活性化にもつながり、小さな社会貢献もできたのではないかと考えております。

革新的燃料の誕生 そば殻からバイオコークスを製造

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