1922
大正11年
小嶋屋創業
初代店主 小林重太郎は、中魚沼郡千手村木島(現在の十日町市中屋敷)にて
小林の姓から「小」を、木島地区から「島」をとり
「小嶋屋」という名のそば専門店を開業しました。
布乃利そばの誕生初代店主 小林重太郎について
かたくなに自分の考えを変えず、時流にのまれず意志を押し通す―
初代・小林重太郎は、まさに頑固(がんこ)親父の代名詞とも言える人でした。
明治25年11月25日生まれ、のちに結婚したツユとの間に12人の子をもうけます。気は優しくて力持ち、反面気骨のある青年で、草相撲では千年山(ちとせやま)のシコ名を名乗る関取でした。生家は麹屋で麹づくりを本業にしていましたが、資金稼ぎのため開拓団の一員として樺太へ渡ったこともあったようです。そして大家族を養うためこの力自慢を役立てようと、一計を案じます。
当時この地方では小麦の栽培は行われておらず、そばのつなぎにはもっぱら山ごぼうの葉や自然薯などを使っていました。ただ、この地方は織物の産地で、織物の緯糸(よこいと)をピンと張るためにフノリ(=布乃利)という海藻を使っていましたので、フノリは容易に入手できる環境でした。
そこで重太郎は「このフノリを使ってそばはできないだろうか」と研究を重ね、布乃利そばを完成させたのです。
そして大正11年「小嶋屋」を開業。
重太郎は夜明けとともに起き出し、当日のそば粉を挽いてフノリをつなぎにし、丹精込めてそば打ちに励みます。ただひとつ、「お金を取って商売する以上、誰が食べてもうまいと思うものでなければならない。わしの力の続くかぎり打ち続けてやる。そしてどこのそばにも負けない味を出してみせる」を信念に―。
重太郎の創業物語フノリとの出会い
重太郎は麹屋を営みながら一念発起して、そば屋を目指します。大家族の生活を安定的に維持するための新たな道でした。
そのため重太郎は地域の家々を回り、そば打ちを教わったといいます。ハレの日には各家庭でつなぎに工夫を凝らしたそばを振舞う土地柄であり、そこからヒントを得て独自の味わいを模索しました。
また開業前に開拓団として樺太へ渡った重太郎は、樺太沿岸に繁茂するおびただしい海藻類を目にしています。「住民たちはこの大量のフノリ(海藻)を採取して、食用にしている――」。 重太郎は即座に、織物産業隆盛の当地・十日町の町に並ぶフノリ問屋を思い浮かべたことでしょう。織物の糸の糊付けや染め物の前処理にも「フノリ」が大量に使われていたのです。
おそらく明治時代までには、どこかの家庭でフノリつなぎのそばは存在していたと考えられます。しかし、商売としては未開な領域。重太郎はこの好条件を見逃さずフノリつなぎのそばを独自に開発、本格的にそば屋を始めました。
そば打ちは思いのほか重労働です。重い石臼で丁寧に、そば粉を挽く。フノリは鍋に入れ、焦がさないようかき混ぜながら、じっくり煮溶かす。そば粉にフノリを足したら満身の力を込め、こねる――草相撲で鍛えた力自慢の重太郎だからこそ生まれた、フノリそばといえるのです。
実際には分からない本当の「創業年」
創業当時は相当忙しく、当時の記録はあまり残っておりません。しかし当社が「大正11年創業」と謳うのには理由があります。決め手になったのはやはり「相撲」でした。
大正11年、地元千手出身の大相撲力士「生田川(いくたがわ)」が十両昇進の偉業を達成します。娯楽の少ない時代に相撲人気は凄まじく、また地元力士の活躍で千手町は大いに盛り上がりました。千手町では後援会が発足、重太郎も名を連ねます。同年7月26日・27日に、東京大相撲の巡業が千手神社で行われ、生田川関の凱旋相撲を待ちわびた町民で大賑わい。興行後は化粧まわしの贈位式・披露式が披露され、重太郎はその場でそばを振舞い、お祝いをしました。
創業年月は明瞭ではありませんが、この凱旋相撲(大正11年)の時点で店を営業していたのは確かです。
尚、この凱旋相撲を記念し、千手神社の境内には石柱に名前が彫られておりましたが、平成16年の中越地震で一度壊れてしまいました。現在は千手神社奉賛会によって再建されています。
千手地区の代表「千年山」重太郎の化粧まわし
創業当時は写真が非常に珍しく、店も繁盛し忙しくしていたことから、若き日の重太郎の写真はあまり残っておりません。その中でひときわ輝きを放つのが、相撲の化粧まわし姿の1枚です。
小嶋屋総本店のある地区はその昔「千手村」といい、地元千手神社の境内にて、近隣の村などの選ばれた力士による奉納相撲大会が盛んに行われていました。テレビもラジオも、各家庭にはまだまだ普及していなかった時代。相撲は古来、競技であると同時に神事であり、民衆の偉大な癒し、娯楽でもありました。当地の村民も厳粛な祈願祭や千手神社の奉納相撲を心から楽しんだことでしょう。
江戸相撲一門の巡業も何度か千手村を訪れており、その際には幕下力士に勝った地元力士もいたとのこと。草相撲ながら、そのレベルは相当のものでした。重太郎は草相撲で「盤石(ばんじゃく)」を名乗り、人一倍体力があり稽古も熱心、大変強い力士でした。その功績が認められ、重太郎は千手地区代表のしこ名「千年山(ちとせやま):千手地区の「千」と、千年続くようにという意」の二代目を継ぐ事になります。草相撲が盛んな当地の中でも、千手地区は千手神社のお膝元。「千年山」の襲名は大変名誉なことでした。
写真は昭和8年9月に行われた、襲名披露と譲渡式の記念に撮影されたものです。小林家で大切に保管していたこの化粧まわしを基にし、創業100年を機に、白黒だった写真の色を再現いたしました。
濃緑(こみどり)の地に大胆に曙と大浪をあしらい、金文字で「千年山」と縫い取った化粧まわし。今でも鮮やかな色彩を放っています。
1931
昭和6年
初の分店を出店する
国鉄(現JR)の信濃川発電所(旧千手村・現十日町市川西地区)の建設工事着工に伴い、建設工事現場近くに初の分店を出店しました。これが当時の小嶋屋に大きな追い風となったのです。
この山間の村は全国からやってきた工事関係者と職人でごった返し、電力景気にわきました。人口わずかな町が、昭和25年には17,979人(現在でも、これが当町の人口のピーク)にふくらむことになります。千手の中心街には芸妓置屋や飲み屋、飲食店が増え、地域に活性化をもたらしました。もちろん、小嶋屋もたいへんな繁盛ぶり。
当時、この地域で生そばの伝統を守っていた重太郎のそばは関東のそば好きにも評判となり、飛ぶように売れたのです。
1947
昭和22年
長男 申一が二代目店主に
重太郎の長男・申一は昭和21年11月、満州から復員します。
翌年の昭和22年、おりしも電力景気に沸くこの町で、マサと結婚し家業を継ぎました。
飛ぶ鳥を落とす勢いのなかでも、二代目 小林申一は研究熱心にどこへ行っても必ずそばを食べ、
自分の店で活かせることはないかと探究していました。
そばづくりへの思い初代店主 小林申一の「先見の明」
申一のそばづくりへの思いがよく表れているのが、地元紙のインタビュー(昭和43年)での一節です。
「フノリそばをつくっているのは全国でもこの地方だけ。だいたい山の幸のそばと海の幸のフノリが結びついたんだから不思議なものです。それだけ父(重太郎)が苦労したんでしょう。
今でも新ノリを取り寄せるため産地へは定期的にでかけます。摘む期間が限られているため、良質のフノリの量を確保するのは難儀な話ですが、このそばのサラリとした光沢と腰の強さはフノリが決め手なのです。そば粉の味は、これ以外では生かせないでしょう」
人気店となってもあぐらをかかず、あれこれと自分の手でそばづくりを試していた申一の、自信に満ちた言葉です。
さらに申一はかなり早い時期から、体力のいるフノリのそば作りの工程を、本物のこだわりをもって機械化できないかと模索していました。
和菓子のあんこを煮る機械にヒントを得てフノリを煮る力作業を機械化したり、熱心に取り組んでいたようです。のちに店で出る生ゴミを活かそうと養豚を始め、多いときには30頭以上の豚を飼育していたこともあり、機械化にしろリサイクルにしろ、先見の明はあったのだと思います。
1948
昭和23年
初めての皇室献上
新潟市で開催されたインターカレッジに、天皇陛下のご名代として秩父宮妃殿下がおみえになった時のこと。当時の岡田正平県知事が十日町出身という縁もあり、小嶋屋のそばを昼食に召し上がっていただいたらどうかとお話しを頂きました。
皇室献上といえばたいへん名誉なこと、この件に関して千手町では議会にかけるほど慎重だったとか。当日は生そばを車に積んで行き茹でたてを差しあげたところ、妃殿下はたいそうお気に召したようで「お礼が言いたいから」と重太郎をお部屋に呼んだそうです。ところが当時は背広などパリッとした洋服がなかった時代。あわてて県のお偉方から背広を借りてかしこまったと、そんなエピソードが残っています。
これ以後、小嶋屋総本店では現在までに5回の皇室献上を賜り、公式行事の際にもご所望を承っております。
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二回目の皇室献上
十日町市ご来訪の際、三笠宮殿下に献上
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三回目の皇室献上
十日町市ご来訪の際、高松宮殿下に献上
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初代・重太郎、十日町橋の上で昏倒。生涯の幕を閉じる。
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町で初めての深井戸を掘り当てる
二代目 申一が町で初めての深井戸を掘り当てる。小嶋屋では雪解けのおいしい地下水を安定給水できるようになった。
1971
昭和46年3月
乾麺の製造を開始
この頃には、店舗で使う玄そば(そばの実)が年間100トン、一日に1000食以上を売り上げるまでになりました。そんななかお客様から「生そばは確かにうまいが日持ちがしない、土産用にどうにかできないか」とのご要望をいただき、申一はさっそく乾麺の研究をはじめます。
昭和46年には廃業した乾麺工場の技術者から協力を得て、当社単独で乾麺の製造をスタート。思い起こせば自然乾燥の手作りのような工場でしたが、これにより従業員は一年を通し安定した仕事ができるようになり、乾麺はご贈答用にたいへん喜ばれました。
乾麺パッケージヒストリー
昭和46年 / 1971年乾麺の誕生
昭和40年頃、当時は3つの店舗があり、営業も軌道に乗っていました。お客様から「生そばは確かにうまいが日持ちがしない。土産用になんとかならないか?」―― こんな御要望を頂き、二代目・申一の乾麺づくりがはじまります。初代重太郎から伝わる生そばの味わいを乾麺でも実現させるという信念の下、永年の研究の末、昭和46年に当店独自の乾麺が誕生しました。
ほぼ自然乾燥のような乾燥施設で、製造工程の大半は手作業による工場でしたが、日持ちのする乾麺は大変喜ばれ、従業員は1年を通じて安定した仕事ができるようになりました。
昭和62年 / 1987年ガセット袋で見栄えよく
乾麺の需要が増えた事もあり、製粉・製造・乾麺工場の増改築を行いました。許される範囲での機械化を進めながら品質向上を図り、小嶋屋そばの特徴を活かしたフノリ入りの「そうめん」「ざるうどん」「きしめん風うどん」を開発。商品ラインアップも順調に増やしました。
袋は「ガセット」と呼ばれるものに変更。この形は化粧箱に綺麗に詰合せできるのが特徴です。
平成8年 / 1996年和紙袋で高級感と機能性をアップ
更なる品質向上を目指し、工場の増設に加え、乾麺の製造・包装ラインを一新しました。それに伴い、乾麺のパッケージを現在の原型となる和紙を基調としたものに変更。これは酸素を通さない袋で、見た目だけでなく、品質保持にも優れた素材です。そしてこの年、「藻乃利(フノリ)そば」という高級志向の商品も発売。当社乾麺は小売店様や百貨店様等にも扱って頂けるまでになりました。
平成14年 / 2002年行政・生産者・JA・実需者との連携を形に ―― 布乃利魚沼そば
「地産地消」の可能性を探ってきたのが、三代目の重則です。平成10年頃から行政・生産者・JA・実需者との連携を模索し、地元の玄そば栽培の普及に取り組んできた結果、安定した玄そばを仕入れる事が可能となりました。平成14年には地元産そば粉のみを使った乾麺「布乃利魚沼そば」を開発。同時にパッケージも変更しました。
平成20年 / 2008年優良品種・とよむすめを使用し魚沼手繰りそばを開発
平成14年、上越市の北陸研究センターで開発されたそばの新品種「とよむすめ」。ルチンの含有量が在来種に比べ約1.4倍と、品質にも優れた品種であり、三代目重則は当地のそば栽培をこの品種に統一できないかと働きかけ、平成19年に品種統一が実現。翌平成20年、地元産「とよむすめ」のみを使用した「魚沼手繰りそば」が完成しました。
令和元年5月 / 2019年名称を「へぎそば」に統一!パッケージもリニューアル
平成25年には製造工場を新築し、乾麺製造ラインや乾燥室を一新した小嶋屋総本店。これまでの乾麺づくりで培ってきた技術を集結し、配合や乾燥室における温度・湿度管理も徹底して行い、品質を飛躍的に向上させました。
令和元年には、商品の名称を「へぎそば」に統一。
「布乃利へぎそば」「手繰りへぎそば」という名称にリニューアルしました。
当店の基本は「生そば」ですが、生そばの味わいに近づける乾麺を作るため、現在も試行錯誤を続けております。
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「有限会社小嶋屋本店」を設立
個人商店の小島屋を法人組織とし「有限会社小嶋屋本店」を設立する。法人化に伴い、称号を「小島屋」から「小嶋屋」に変更・統一。資本金500万円、代表取締役に小林申一が就任する。
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本社店舗を新築する
経営規模の拡大に伴い、倍額増資を行い資本金を1,000万円とし、本社所在地に本社店舗を新築する。
1975
昭和50年
二代目 申一、倒れる
申一は家業に励むかたわら地域貢献にも熱心で、消防団長やPTA会長、商工会千手支部長、町議会議長、飲食関係の役職など、多岐にわたって努めました。
町の公職にも就く忙しい日々を送る中、昭和50年12月12日、申一は脳卒中で倒れてしまいます。
病院の枕にひびく瀬の音を聞きつつ夫の足をなですり退院を望んでおりぬ夫なれど胸にて泣きて昨日も今日も長男と嫁に今日より店任しわれはひたすら夫に尽くしぬ
(小林マサの歌集「わが夫(つま)恋盆唄」より一部を抜粋)
病床で申一を看病しながら短歌をはじめた妻マサの、想いあふれる“叫び”です。
申一の長男、重則は当時、東京の大学へ通っており、卒業後は申一のもとで小嶋屋の技術を学び、伝統と格式を重んじながらそばの本質を究めていこうと考えていたのでした。申一が倒れたことで、二代にわたり受け継いできた“のれん”の重みがずっしりと感じられた重則。お客様や従業員のためにこののれんを守らなくては、そしてこの状況を乗り切らなくてはいけないと、東京から戻ってきたのです。
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現社長・小林重則が専務取締役に就任する。
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柏崎店を開設
柏崎市駅前に「柏崎店」を開設する。
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四回目の皇室献上
黒川村育樹祭の際に、皇太子殿下、妃殿下に献上。
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二代目 申一、勲六等単光旭日章を頂く
二代目 申一が消防庁長官から勲六等単光旭日章を受章、仕事のかたわら地域社会に貢献してきたことが認められる。
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工場の増改築、新築を行う
製粉工場の増改築を行い、石臼3台を増設し、品質の向上をはかる。また乾麺及び生麺の製造工場を新築する。
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商号を「株式会社小嶋屋総本店」と変更。工場の近代化も図る
有限会社を株式会社とするとともに商号も併せて変更し、株式会社小嶋屋総本店とする。また乾麺製造設備等を増設し工場の近代化を図る。
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株式会社越後小嶋屋を設立
新潟市の販売拠点を充実するため、株式会社越後小嶋屋(資本金2,000万)を設立し「亀田店」を出店する。
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二代目 小林申一、永眠する。
1993年
平成5年4月
小林重則、社長に就任する
申一の長男、重則が小嶋屋総本店を継承し、三代目店主となる。
創業当時からの「三たて:挽きたて、打ちたて、茹でたて」にこだわり、
「お客様へのおもてなしと品質第一を大切に」という経営理念を掲げる
小嶋屋の系譜へぎそばの源流をたどる
小嶋屋総本店は1922年(大正11年)に、初代小林重太郎が、現在の本店所在地である十日町市中屋敷(旧中魚沼郡川西町木島町地区)にて開業いたしました。
その後、重太郎の長男・申一が二代目を継承、現在は申一の長男である重則が三代目として店主を受け継ぎ、新潟県内に8つの直営店を展開しております。そして2022年には創業100周年を迎える、地域を代表する老舗のへぎそば店です。
小嶋屋総本店以外にも、「小嶋屋」と名のつく店があります。十日町市に本店のある株式会社小嶋屋と、長岡市に本店のある株式会社長岡小嶋屋です。これは二代目申一の時代に十日町と長岡に出店し、各店の経営を兄弟にまかせた店舗で、小嶋屋総本店とは別の独立した店舗と位置づけられました、それ以降、現在においても各店とも独自の味づくりに励んでいます。系譜は以下の通りです。
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「県央店」を出店
株式会社越後小嶋屋の二店目として、燕市に「県央店」を出店する
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㈱小嶋屋総本店に一本化する
企業体質の強化をはかるべく㈱越後小嶋屋を、㈱小嶋屋総本店に一本化する。
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第二工場増設ならびに乾麺製造、包装ラインを一新する。
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「小針店」を出店
新潟市西区に「小針店」を出店する。
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「うまいもの屋一翔一号店」を開店
コレクション経営として二毛作業態に新規参入。柏崎市に「うまいもの屋一翔(そば居酒屋)一号店」を開店する。(平成29年に閉店)
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「一翔女池インター店」を出店
新潟市中央区に「一翔女池インター店」を出店する
2002年
平成14年
「布乃利 魚沼そば」誕生
魚沼といえば、言わずと知れた米どころ。しかしながら地元農業の減反政策の一環として、そば栽培が徐々に広まりつつありました。三代目 重則は今以上にそば栽培を行えないかと、地元にある「十日町そば研究会」に積極的に働きかけてきました。
そばはやせ地でもすくすく育つ半面、天災や湿害には弱い点も持ち併せます。そばの実が熟す直前、刈り入れ前に思わぬ台風や初雪のために涙する……そんな生産者の苦労話もありました。
しかし、そばにかける熱い思いは重則だけでなく、行政やJA、生産者が一体となった大きなうねりを生む事となります。当地の玄そばの品質が認められるにつけ、生産量を増やしていったのです。
平成14年にはいると地元産の玄そばも安定した量が確保でき、「地元産のみのそば粉」を具現化した商品「布乃利 魚沼そば」(現在の「手繰りへぎそば(乾麺)」の前身にあたる商品)が誕生しました。「安全・安心」「地産地消」は、わたし共作り手がこだわるキーワードであり、お客様からの信頼にもつながるものと考えています。
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五回目の皇室献上
地球環境米米フォーラムにて、十日町市(旧川西町)ご来訪の高円宮殿下に献上。
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「長岡喜多町店」
長岡市に「長岡喜多町店」を出店する。
2003年
平成15年
そばの新品種が開発される
平成15年、新潟県上越市にある「北陸試験センター」にて、そばの新品種(当時の名は「北陸2号」)が開発されました。
新品種の特徴
- ルチンの含有量が
在来種に比べ約1.4倍
- 多収で食味に
優れている
- 苗が丈夫で倒伏に強く
安定生産が図れる
新品種は上記の通り、非常に優れた特徴をもっていました。「まだ命名もされないこの品種を、当地のそば栽培に活かせないだろうか」― 重則の考えにいち早く賛同して頂いたのは、十日町地域振興局の植木課長(当時)です。「やるからには徹底的に!米に負けない高品質のそば栽培に、地域と一体取り組みましょう!」と、力強いお言葉も頂きました。
この品種はのちに「とよむすめ」と名付けられ、当地では種子用に5キロの種を分けて頂く事ができ、全国で2番目の栽培量を手がけることとなりました。そばは交雑しやすく、他の品種とは一緒に栽培できません。「とよむすめ」は種子用に隔離された場所で大事に育てられ、平成19年、ついに十日町市旧川西地区において、玄そばはすべて「とよむすめ」に品種統一されました。現在、当社においては、地元玄そばの9割以上にあたる30トン以上の「とよむすめ」を入荷しています。
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総本店を新築移転する
十日町市の総本店を新築移転する(席数146)
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「松崎店」を出店
新潟市東区に「松崎店」を出店する。
2008年
平成20年
「魚沼手繰りそば」誕生
「とよむすめ」の登場が、三代目 重則の追及心に火をつけます。地元そば栽培の活性化への取り組みから約10年。長年思い描いてきた夢を形にする時がやってきました。「こだわりの地元産玄そば『とよむすめ』のみを使い、その他の原材料も全て純国産とした、本当の意味でこだわり抜いた乾麺を作る」―― 小嶋屋総本店が自信をもってお勧めする、地産地消のこだわりを持った乾麺「魚沼手繰りそば」が、平成20年ついに誕生しました。
当地の玄そば栽培の集大成とも言える「魚沼手繰りそば」ですが、よく聞かれるのはこの「手繰り」の意味。「へぎそば」を盛り付ける際、一口ずつ食べやすく織の目に模して並べた紋様(模様)は、全国的にみても珍しいものです。この形(またはその動作)を「手繰り」と呼びますが、その語源は、伝統技術である織物の糸を巻く動作「かせ繰(ぐ)り」から伝わったと言われてます。
当地の織物文化、そしてへぎそばという食文化を結ぶ上でも、「手繰り」という言葉は切っても切れません。味へのこだわり、産地へのこだわり、歴史へのこだわり……、いくつもの熱い想いを一つのストーリーとしてつなぐ意味も込め「魚沼 手繰りそば」と命名したのです。
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「亀田インター店」開店
新潟市の「亀田店」を新築移転し、新潟市中央区に「亀田インター店」として開店する(席数106)。
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品質管理マネジメントシステム ISO9001を認証取得する
ISOの規格を基に製品の品質、顧客対応の品質、業務の品質、そして「社員の品質」の向上に勤め、お客様からさらに愛される企業を目指したいと考え、ISO9001認証を取得。
2013年
平成25年3月
「へぎそば工房」を竣工
衛生的・効率的で生産性を向上させる事ことはもちろん、
品質・味も充実・進化させる=お客様満足度を高めることを第一の目的として、
新工場「へぎそば工房」を造りました。
2014年
平成26年
そば殻を次世代燃料へ
当社では、2014年からそば粉を自家製粉する際に残るそば殻を活用し、バイオコークスを製造しております。
産業廃棄物として処理せざるを得ないと考えていた「そば殻」を革新的な燃料にする事で、
地元の産業活性化にもつながり、小さな社会貢献もできたのではないかと考えております。
そば殻を次世代燃料へ
当社のそば粉は玄そばから自家製粉しているため、その為大量にそば殻が残ります。
かつては枕材料として活用されていましたが、時代と共にその取引はほとんど無くなりました。そして平成5年頃、当社の贈答用箱等の作成に日頃からご尽力頂いている地元の障がい者支援施設「なかまの家」のご担当者から、「そば殻を炭にして『燻炭(くんたん)』(田畑の土壌改良剤)を作ってはどうか」というご提案を頂きました。米の殻である「もみ殻」の燻炭は既にあったものの、そば殻の燻炭は大変めずらしく、ご好評も頂きながらその支援を20年程続けて参りました。しかしながら製造施設の移転に伴い、作業場所確保等の問題で製造が困難に。平成25年には、産業廃棄物として処理せざるを得ない状況となってしまったのです。
燻炭の製造が出来なくなり頭を悩ませていたその時、運よく出会う事ができたのが、近畿大学の井田民男教授です。「そば殻を『バイオコークス』という固形燃料にしてはどうか」という、画期的なご提案を頂きました。
バイオコークスとは、近畿大学理工学部の井田教授が、平成17年に石炭コークスの代替燃料として、長き研究の末に開発した新しいバイオマス固形燃料です。植物由来であれば殆どの物が原料として活用でき、一定の基準まで粉砕(細かく砕く)され、乾燥していることが条件に挙げられます。そのため、原料によっては「乾燥」という前工程を必要とします。その原料に「圧力」「加熱」「冷却」等、井田教授が開発した特殊な工程を経て「バイオコークス」は作られます。薪ストーブやウッドボイラー等に使えて燃焼力が高く、ほこりやごみの付着が少ないので、衛生的な燃料としても注目を集めています。
バイオコークスは前述の通り、原料によっては乾燥の必要がありますが、そば殻はそのまま使う事ができます。そして当社の製粉工場からは、年間を通じてほぼ一定量のそば殻が排出されるため、広い保管場所も必要とせず、しかも処理量を調節できます。
バイオコークスの製造作業には、障がい者支援施設「なかまの家」、障害福祉サービス事業所「ワークセンターかわにし」の両施設より全面的なご協力を頂きました。当社では障害者の方が安全に作業ができるよう、環境の整備をさせて頂きました。
一時は産業廃棄物として処理せざるを得ないと考えていた「そば殻」を革新的な燃料にすることで、障がい者の方々の活躍の場が広がり、地元の産業活性化にも繋がって、小さな社会貢献もできたのではないかと考えております。
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「新津店」を出店
新潟市秋葉区に「新津店」を出店する。
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「製品中温倉庫」を新築
生産量の増加に伴い、製品中温倉庫を新築する。
小嶋屋総本店三代目 小林重則の想い
これからの
100年に向けて
© KOJIMAYA-SOUHONTEN.